JASRACの強欲、狡猾さ

私的複製補償金で著作権団体が提言(NHK・NEWS WEB)

 

このアイディアは、記事にもあるように日本音楽著作権協会(JASRAC)の考えたものだ。著作物のコピーが、デジタル化によってより簡単に正確に行われるから、パソコンやハードディスクにもその補償金を上乗せせよ、という考えだ。

 

そもそもPCの用途は様々で、ユーザーによっては作品の複製や加工や鑑賞とは全く関係のない使い方もある。要は「筋が悪い」提案だ。少なくともユーザーもメーカーも賛成できる要素はない。が、JASRACのずるさは、この案に「著者」が反対しにくい、としたところにある。

 

作品を創るのは、努力だけでは難しい。かと言って、才能があればできるかと言うと、それだけでも無理だ。才能も努力も必要な、限られた人にしかできない仕事だと思う。仕事としては楽ではないし、それなりの報酬も欲しい仕事だ。

 

作品を生み続けるために必要な費用として、苦労に見合う対価と、いつ降りてくるかわからないインスピレーションに対する保険としての対価も必要だ。著者が餓死しては元も子もないし、また、著者がバイトや副業で創作活動を妨げることもファンとしては避けたい。金は必要だ。JASRACは、その費用の回収を代行し、著者がこの煩わしい作業から手を離させ、創作活動に専念させることで、相応の手間賃を「掠め取る」わけだ。ビジネスとして、悪くはない。

 

しかし、著者の気持ちは複雑だと思う。わざわざ「創作」という苦しい稼ぎ方を選んだのは、ギャラが良いからだけではないはずだ。むしろ、自分の作品を楽しみにしてくれるファンがいる、という他に代えがたい喜びがあるからだ。少なくともそう信じたい。

 

著者は、ギャラ以上に、自分の作品を鑑賞し楽しみにしてくれるファンをきっと求めているはずだ。買うだけ買って見もしない人と、無料であっても鑑賞してくれる人と、最終的にどちらを選ぶのか、と迫るとき、本当はただでも鑑賞してくれる人を求めるはずだ。そう思いたい。だが、作品を創るには金が要る。できれば良い生活・楽な生活をしながら、金の心配をせずに創作活動に集中したいと思う、これももっともだと思う。最終的にどちらを取るか、これは著者にとって難しい選択だと思う。

 

さて、この提案である。著者である自分のファンも含まれるであろう、パソコンのユーザーやハードディスクの購入者に、「嫌だ」と思われるようなことは著者としてはしたくない、第一、そんなことをしたら自分の作品を買ってくれなくなるかも知れない。だからと言って、著者の立場でこの案には反対しにくい。こんな葛藤を著者がすると、JASRACは知っていて、それでもこの案を提出するのだ。JASRACは著者に対して、自分たちのファンが反対する立場に追い込む。これが彼らのずるさだ。

 

出荷台数をカウントし、売価か卸値あたりに一律に費用を賦課することはそう面倒でもない。仕組みさえできれば、カラオケの印税のようにあとは自動的に収入になる。そういう楽なビジネスに著者を巻き込み、それでいて味方の振りをする。

 

PCのユーザーらがこの案に反対するのは、もちろんそれだけ単価が高くなることに反対するのだが、同時に、こうしたJASRACのやり口に嫌悪感を感じるのだ。著者とファンの間に入って、ジャラジャラと金を音をさせるような嫌悪感を彼らはさせるのだ。「著作権」は本来、文化の発展に寄与するために考えられた権利のはずだ。それを、著者にも作品にも、ましてやファンになど興味のかけらもない第三者が金のために利用する強欲と狡猾、これがこの案に対する嫌悪感だ。